隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

平安朝 皇位継承の闇

倉本一宏先生の 平安朝 皇位継承の闇を読んだ。歴史上暴虐・狂気の天皇として記録されている歴代の天皇が何人かいるが、なぜそのような伝説が残っているのを考察した一冊だ。

本書のタイトルに平安朝と書かれているが、まず序章で扱われているのは武烈天皇だ。武烈天皇は暴虐・狂気の天皇日本書紀に書かれているという。実はこのあたりのことに関してはよく知らなかった。著者は日本書紀の記述は創作で、実際はそのようなことはなかったであろうと論じる。ではなぜこのような創作をしたのか? それは、応神天皇から始まる皇統は清寧天皇までつながり、その後は播磨で「発見」された弘計(顕宗天皇)・億計(仁賢天皇)が継いで、その後億計の子の御泊瀬稚鷠鷯天皇(武烈)が即位した。しかし、子がなかったので、ここで途絶えた。そこで、越前から男大迹王を迎え、前王統の手白香女王との婚姻により、継体天皇となり即位した。古事記では男大迹王は応神天皇の五世孫ということにはなっている。この男大迹王の正統性を何とか主張しなければならない。しかし、応神から男大迹王につながるそれらしい大王までは作り出せなかったのかどうかわからないが、古事記には書かれていなし、日本書紀には父と母の名前と出自を記すにとどめている。そこで、中国の易姓革命になぞらえて、無道・暴虐である武烈の王朝は徳がないので滅び、有徳の君主が新たな王朝を創始という風にして、継体天皇には正統性をがあるというストーリをひねり出したというのだ。

継体天皇のことを最初に聞いたのは慥か高校の日本史だと記憶しているが、即位してからなかなか大和の地に入らなかった(入れなかった)のが何とも不思議で、どう考えても、この前と後では皇統は途切れているのだろうなぁと思ったことが記憶に残っている。そして、この倉本先生の説明を読んでなるほどと思った。継体天皇はその後の皇統の始まりになっているので、何としてもその正当性を記録に残す必要があったのだろうと思うと、この説明は容易に納得がいく。

平城天皇

平城天皇桓武天皇の子で、桓武天皇崩御した大同元(806)年即位した。その時同母弟の神野親王(後の嵯峨天皇)を皇太弟とし、この時点では桓武に始まる皇統の嫡流であった。桓武天皇は父系にも母系にも自分の地を引く天皇の出現を望んでおり、それは天武系と天智系を統合した新たな嫡流皇統の創出を意図していた。しかし、平城天皇は身分の低い葛井藤子や伊勢継子から皇子を誕生させた。平城が支配層からの離反にあい皇統から排除されたのは、嫡流の皇統を創出できなかった、あるいは拒絶したからというのが理由のようだ。

陽成天皇

陽成天皇は聖和天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原基経の妹の高子。貞観十八(876)年九歳で践祚したが、元慶六(882)年十七歳で退位した。摂政藤原基経により仁明天皇の皇子で二世代も遡る五十五歳の時康親王が擁立され、光孝天皇になった。陽成廃位の理由は母の藤原高子と摂政藤原基経の関係が原因だという。高子は良房により女色におぼれさせられた清和天皇の轍を踏み、陽成が傀儡と化すことが容認できなかった。基経は陽成を廃位することにより、高子を権力の座から遠ざけることが目的だった。

基経は清和天皇と自分の娘佳珠子の子である貞辰親王(陽成退位時には十一歳)を擁立して、摂政の座に就くことを予定していたものの、光孝天皇が在位三年で病に倒れ、貞辰親王を即位させると、陽成・皇太后高子が復権する恐れがあるので、光孝天皇の第七皇子源定省親王に復し、宇多天皇としたという。そして、陽成天皇は後世、「悪君の極み」「物狂いの帝」「狂気」と語られることになる。

冷泉天皇

冷泉天皇は天暦四(950)年五月村上天皇の第二皇子として生まれた。母は藤原師輔の娘安子。七月には生後二か月で早くも皇太子になった。既に第一皇子の広平親王藤原元方の娘更衣祐姫から生まれていてたが、藤原元方天皇外戚になる望みを失ったことにより、憤死し、怨霊になったと言われている。康保四(967)年、村上天皇の死去により、十八歳で践祚し、藤原実頼を関白とし、村上天皇の第五皇子守平親王が皇太弟に立った。しかし、わずか三年後の安和二(969)年八月に譲位した。そして、守平親王践祚し、円融天皇となる。

村上天皇以降皇統は冷泉系と円融系に分かれ、冷泉ー円融ー花山(冷泉系)ー一条(円融系)ー三条(冷泉系)のように交互に皇位を嗣ぐ迭立状態になる。しかし、三条天皇以降冷泉系からは選ばれず、円融系に皇統は収斂することになる。これは後期摂関政治と密接に関係している。実頼、頼忠の小野宮流藤原家から、九条流藤原家の師輔の子である伊尹・兼通・兼家というように兄弟でそれぞれの娘を天皇の妃に入れ、所生の皇子を後見するということを繰り返すうちに、円融系の皇統が確立したのだ。そして、皇統を残せなかった天皇、あるいは次ぐことができなかった皇子には狂気の説話が作られ、狂気ゆえに皇統を残せなかったというロジックが生み出されたのだ。

花山天皇

花山天皇は安和元(968)年冷泉天皇の第一皇子として生まれた。母は藤原伊尹の娘懐子。安和二(969)年に円融天皇東宮となった。花山は後見の伊尹を五歳で亡くし、八歳の時に母懐子を失って、孤児になり、祖母恵子女王に育てられた。永観二(984)年に十七歳で即位し、外舅義懐(伊尹の子)や藤原惟成(花山の乳母子)を側近とした。一年八か月後の寛和二(986)年六月二十三日、藤原兼家らの策謀により、突然退位させられ、花山寺(元慶寺)で出家した。

当時は冷泉系が皇統の嫡流と考えられていたが、数々の偶然の積み重ねで、円融ー一条の皇統が嗣いでいくとこになった。その過程で、藤原氏における道長の優位が確定的になり、そして、道長の嫡男頼通は異例の昇進を遂げ、寛仁元(1017)年、二十六歳で摂政となり、五十一年間も摂政に居座り続けた。その後頼通の子孫が摂関家としてこの地位を継承していく。その間、藤原氏の関係者により、本来は嫡流ではなかったはずの道長―頼通の正統性を語る説話や歴史物語が作られ、同時に彼らが後見する円融―一条ー後一条ー後朱雀の皇統の正統性を語る説話や歴史物語が作られていったのである。