隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

平氏―公家の盛衰、武家の興亡

倉本一宏先生の平氏―公家の盛衰、武家の興亡を読んだ。本書には平氏の誕生の経緯から平清盛一族滅亡後の平氏についてまで詳細に書かれている。平清盛一族が滅亡しても、公家の平氏の一部は都で生き残り、明治の代まで続いていた。

平氏の誕生

桓武天皇の第三皇子の葛原親王が天長二(825)年三月二十四日に淳和天皇に上表して、自らの男女に平朝臣を賜ることを請うたが、この時淳和天皇は認めなかった。再び七月六日に子息の一部を臣籍に降下させることを上表すると、今度は許された。上表は一度では許されないのが通例であるのと、最初は全員であったことが認められなかった理由と推測されている。平というのは桓武天皇平安京(「多比良たいら」京)を定めたことに由来していると言われているが、源のように漢籍に由来があるのではないかという説もあるらしい。しかし、その漢籍に関しては本書には具体的には書かれていなかった。この時臣籍に降下したのは高棟王善棟王であろうとされている。善棟王臣籍降下後4年して亡くなり、子孫も伝えられていないようだ。高棟王系譜としては三男の惟範が平氏嫡流となり、堂上平氏と称され、朝廷では蔵人、検非違使、弁官などの官人として勤め、古記録を記して「日記の家」と呼ばれた。この家系が公家の平氏である。

その後、承和七(840)年に春香王が臣籍降下したが、詳細は書かれていない。

高見王の子の高望王が寛平元(889)年に従五位下に叙爵され、平の姓を賜り、上総介として下向した。その後、そのまま坂東にとどまり、勢力を拡大した。当時の坂東は群盗や俘囚といった武装騎馬集団の蜂起が相次ぎ、これに対処するために武人的性格を帯びた貴族を派遣して、鎮圧にあたらせた。中央の貴族社会に参入する見込みがない彼らは、武功による恩賞得て、貴族社会に復帰することを画策していたと考えられる。高望は、自分の子息を、常陸大掾を勤めた後に常陸に留住していた嵯峨源氏の源護の女と結婚させた。この一族が高望流桓武平氏武家平氏ということになる。ただし、将門の父である高望の三男の良将は護との姻戚関係はない。このことが良将を一族の中で孤立させ、将門の乱の発端となる一族の内紛につながる要因となったようだ。

葛原親王桓武平氏以外の平氏

その他の桓武平氏

桓武天皇の第六皇の男万多親王、第八皇子仲野親王、第十二皇子の賀陽親王の男にも平朝臣が下賜されている。

仁明平氏

皇統は桓武 - 嵯峨 - 仁明と繋がり、仁明天皇は即位後第四皇子までを親王とし、承和二年他の皇子に対し源氏賜姓の詔を発した。その後生まれた第五皇子本康親王には10人の子がいたが、6人が源氏になった。王のままだった4人のうち雅望王行忠王惟時王の子がどこかの時点で平朝臣を賜っている。

文徳平氏

文徳天皇の第三皇子惟彦親王の男惟世王の男に平寧幹がいる。

光孝平氏

光孝天皇の皇子の是忠親王の男に式瞻王、興我王忠望王がいて、この三人の王の男に平朝臣が賜姓されている。

伊勢平氏

天慶の乱の鎮圧にあたった藤原秀郷平貞盛源経基の子孫は「兵の家」として中央における軍事貴族の地位を独占した。貞盛の子の惟将、惟叙、惟敏は都の武士として活動しつつ、常陸を地盤として、受領である常陸介に任じられていた。一方四男の惟衡は伊勢を勢力圏にした。惟衡は伊勢の北部の鈴鹿郡三重郡を勢力圏としていたようだが、なぜその地を勢力に組み入れたかについては本書に書かれていない。惟衡は藤原顕光の家人であったが、後に藤原道長藤原実資の家人にもなっている。

惟衡の四世代目の正盛が白河法皇に接近し、中央政界に進出した。承徳元(1097)年伊賀国の所領である山田・鞆田両村を故郁芳門院媞子内親王の菩提所である六条院に寄進したことから、白河法皇の近臣となり、院の下北面の地位を得た。院の寵妃である祇園女御や院の近臣藤原為房・藤原顕季らと結んで勢力を伸ばし、若狭守・因幡守と格の高い国の守を歴任した。嘉承二(1107)年源義親(源義家次男)が出雲で起こした反乱を鎮圧したことにより但馬守に任じられ、これにより義家流河内源氏は没落し、正衡(正盛の父)流伊勢平氏が台頭した。そして、他の伊勢平氏が正衡流に従属するようになった。正盛の男の忠盛も白河法皇の近臣となり、白河法皇の後に院政を開始した鳥羽上皇にも恩寵を受けた。この忠盛の長男が清盛である。

清盛は最初に高階基章の女と結婚した。基章は右近将監という下級官人で、女の名前も伝わっていないので嫡妻ではないようだ。次に清盛は平時信の女である時子と結婚した。時信は高棟流平氏の家系で、摂関家藤原忠実・忠通父子に奉仕した中級貴族である。ここに至って武家平氏と公家の平氏が再び合体したことになる。