隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

公家源氏―王権を支えた名族

倉本一宏 先生の公家源氏―王権を支えた名族を読んだ。

公家源氏というのは倉本先生の造語のようで、学界ではまとめて「賜姓源氏」と呼ばれているが、これではいわゆる武家の源氏と区別がつかないので、この言葉を本書では使っているようである。この本は実に労作だ。清和天皇のときに臣籍降下し源姓を得た皇子女から始まり、その後の源氏に関しても網羅的に記述されている。誰が源氏として臣籍降下し、どのような官位を得、どのように昇進したかが書かれていて、いったい何人の源氏が登場しているかかわからない。数えるもの嫌になってしまうぐらい源氏が登場しているのだ。

臣籍降下の理由

嵯峨天皇弘仁五(814)年五月自らの皇子女8人に源朝臣の姓を賜って、臣籍に降下させた。ここに公家源氏が誕生したのである。類聚三代格にある嵯峨の詔には「徒に歳月が屢ば巡り、男女がやや多くなった。未だ子の道を知らず、かえって人の父となった。かたじけなくも封邑を累ね、空しく府庫を費やした。朕はこれを思って痛む」とあり、国費が費やされていることを問題視して、皇籍から離脱させたというのだ。実際嵯峨天皇には50人の皇子女がいて、この時そのうちの8人が臣籍降下になった。更に、後に臣籍降下したものを含めると32人になるという。国庫からどのように皇子女に対しての費用が賄われていたかというのは書かれていないので、全くわからないが、出費を削減するという一面は確かにあるのだろ。しかし、臣籍降下した男子が後に高位の高官につけば、親王を遥かに上回る給与が発生するという面もある。実際この時に臣籍降下した皇子17人のうち、大臣に3人、議政官に14人がついたので、削減した分と、後に出資した給与分を合わせるとどのようになったのかは興味がある。

他の理由として、嵯峨が自分の子を官僚化して、天皇を輔弼させようとしたいうのがあるが、天皇の代が降ると天皇との親等が離れていき、没落していくものが多かった。天皇側からすると一見良いように見えるが、源氏となった元皇子女にすると、厳しい将来が待っていることになる。

また、皇位継承候補者を削減しようとしたという側面もある。実際にはこのとき臣籍降下した皇子女の生母は「雑多な中小諸氏の子女」であり、親王内親王として残ったものの生母は皇族であった。また、親王として残った皇子は「良」を通字とする二字の諱、皇女は「子」を通字とする二字の諱持っていたのに対し、源氏となった皇子は一字名の諱、皇女は「姫」を通字とする二字の諱を持っていて、命名された時点で、親王宣下を受けるか、臣籍降下するか決まっていたようである。

源という姓の由来

源という姓は、北魏の太武帝(世祖)が行儀の優れた南涼王の子の禿髪破姜に対して、北魏帝室の拓跋氏と源が同じという意味で「源氏」を与えて、源賀と名乗らせたという「魏書」の源賀伝の故事によるという。

源氏から天皇

陽成天皇貞観十八(876)年九歳で践祚したが、元慶六(882)年十七歳で退位した。摂政の藤原基経により仁明天皇の皇子で二世代も遡る五十五歳の時康親王が擁立され、光孝天皇になった。光孝は即位の前に多くの王子女を儲けていた。貞観十二年に清和天皇に請い、14人の男に源氏朝臣の姓を賜った。また、即位後、藤原基経に配慮して、元慶八(884)年四月に自ら勅を発し、伊勢神宮斎宮(繁子内親王)と鴨社の斎院(穆子内親王)の2人の内親王を除く全員を源氏とした。これは、皇子の皇位継承権を放棄したことを基経に示したのだ。しかし、この後光孝天皇は3年で薨去し、基経の皇位継承構想に狂いが生じ、光孝天皇の第七皇子源定省親王に復し、宇多天皇とした。