隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

ソーンダーズ先生の小説教室 ロシア文学に学ぶ書くこと、読むこと、生きること

ジョージ・ソーンダーズの ソーンダーズ先生の小説教室 ロシア文学に学ぶ書くこと、読むこと、生きること (原題 A SWIM IN A POND IN THE RAIN: In Which Four Russians Give a Master Class on Writing, Reading, and Life)を読んだ。大学教授でもあり作家でもあるジョージ・ソーンダーズがロシアの短編小説を解体し、どのように短編小説が構成されているのかを本書で解説している。扱われているのは19世紀のロシアの文豪の短編小説で、チェーホフの「荷馬車で」、ツルゲーネフの「のど自慢」、チェーホフの「かわいいひと」、トルストイの「主人と下男」、ゴーゴリの「鼻」、チェーホフの「すぐり」、トルストイの「壺のアリョーシャ」。

ジョージ・ソーンダーズの名前は知らなかったが、現代アメリカを代表する作家のようだ。シラキューズ大学院で開校している彼のワークショップは600~700の希望者の中から年に6人しか選ばれないというから、かなりの狭き門であり、その人気のほどが想像できる。ソーンダーズ曰く収録されている短編は短編小説という形式の絶頂期に書かれた傑作で、学ぶべきことが多くあるのだという。ロシアでは伝統的に作家に求められる役割が大きく、思想家や宗教者としての役目や、社会を改良し、大衆を教え導く役割が期待されていたという。しかし、政治色を出せば、追放、投獄、処刑につながりかねず、絶え間ない検閲の恐怖のもとで書かれた。あらゆる人間は注目に値し、宇宙のあらゆる善悪の起源は、たった一人の極々つまらない人間とその心の動きを観察することで分かるかもしれないという過激な理念に由来している。この理念があらゆる短編に当てはまるかどうかはわからない。本書の短編に登場する人物はごくごく普通の人たちであり、物語の中で何かの気づきを得る。しかし、それが意識の表層に現れずに、一生を過ごすのだと思われるような人物として描かれていた。

本書の構成としては、上記の短編小説が丸ごと収録されており、その後ソーンダーズが事細かに分析し、なぜそのような構成になっているのかを解説している。特に最初の「荷馬車で」では数ページ毎に区切って、詳しく解説している。これはどの様に小説を読むべきかというのをまず示すためにこうしているのだろう。解説の中でいくつか興味深いことがあった。

短編小説に出てくるものはすべて、目的が無くてはならない
短編小説というのは効率重視の形式なので、不必要なものはない。偶然にそこに書き込まれることはないのだ。あらゆる要素は、小説の目的と関連した意味をわずかなりとも帯びているはずだ。
コーンフェルドの原則
構成要素はみな、以下の二点を満たさなければならない。(1)それ自体面白い(2)ストーリーを由々しく前進させる。コーンフェルドというのは映画プロデューサーで、ソーンダーズにかつてこのような内容を語ったようで、そのプロデューサーの名前を付けている。
文章を小説に変えるのは、
そこで登場人物が永遠に変わってしまうような何かが起こるせいだ。その変化の瞬間を切り取るために、小説はある時点から始めて、別の時点で終える様に語る。このことは一番目と密接に関連しているが、大したことが何も起こらない時期の話はする必要がない。
「作家が物事を解決する必要はない。問題を正しく提示するだけでいい」
これはチェーホフの言葉らしい。「正しく提示する」は「問題を否定することなく、その存在をあまさず感じさせる」という意味だ。これはかなり意表を突かれた。問題があるのに解決策のかけらも示さないのは何か物足りなさを感じるのだが、そういう物ではないようだ。多分問題を読者に認識させ、考えさせることの方がより重要なのだろう。
原因を作り上げる能力の取得度合い
優れた作家の重要な資質として、2点目に上がっている。1点目は推敲への前向きな姿勢だ。小説とは結局出来事の羅列であり、読者がその因果関係を理解できる必要がある。因果関係が意義を作り出していくので、一つ一つの出来事が次の出来事を引き起こしているよう書き、そのように読ませるのは難しい。
小説は答えをくれない。それはただ「思い巡らせ続けろ」と言うだけだ
このことも「問題を解決する必要はない」と相通じる部分だろう。問題を提示することにより、読者に問題を考えさせるのが小説であり、あえて答えを明確に書かないというのも小説の方法の一つなのだろうと思う。

これ以外に興味深かったのはゴーリキーのスカースの用い方だ。本書でスカースは「信頼のおけない一人称の語り手」と書かれているが、スカースは一般的にはロシア文学における一人称の語りのことで、ゴーリキーはこの一人称に信頼のおけないという新たな役割を与えたようだ。このような語り手により物語が不適切に強調され、ずれた前提によって物語が歪められてしまう。そして、小説が最終的には不条理な物語に変質してしまう。本書に収録されている鼻などまさにこのパターンだ。

もう一つ興味深かったのはトルストイの小説における聖愚者ユロジヴィと呼ばれる人物だ。この人物は「完全に神の思し召し―導きのもとにある」人を指し、「純粋と平和な心をもったまま生き、死んでいく」ような人物だ。ソーンダーズは「私たちの手に余る出来事があまりにも多いのなら、心を平穏に保ち、世は乱れるがままに任せようではないか。愛に包まれて超然としていよう。あるがままの状態を肯定し、つかの間の虚構に過ぎない己を手なずけるのだ」と書いてあるが、「壺のアリョーシャ」の結末はそうだとしてもあまりにも儚い。