隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

征夷大将軍研究の最前線

征夷大将軍研究の最前線を読んだ。本書は「征夷大将軍=源氏」観の歴史的な成立過程を論じるために、4つのテーマを設けている。

  1. 鎌倉幕府と征夷代将軍
  2. 室町幕府と征夷代将軍
  3. 征夷代将軍と八幡信仰
  4. 征夷代将軍の近世的展開

そもそも、頼朝は征夷代将軍を望んでいなかった? (下村周太郎)

タイトルがわかりにくいので、誤解を招くと思うが、頼朝は「大将軍」という称号を欲していたのだという話なのだ。この事は私も何かで読んだか・見た記憶があるのだが、その根拠となる史料に関してははっきり知らなかった。その史料とは「三槐荒涼抜書要」で、平安末期の貴族である藤原忠親の日記「山槐記」と、鎌倉中期の貴族藤原資季の日記「荒涼記」の中から特定のトピックスを拾い出して、その要点を書き留めたものである。この中の「山槐記」建久三(1192)年七月九・十二日に該当する記述が含まれていた。

七月九日に関白の藤原兼実の使者として藤原宗頼が藤原忠親を訪れて、「頼朝が前大将の号を変更して、大将軍に任じてほしいと望んできた。中原師直と中原師尚とに諮問したところ、複数の候補が挙がってきた。どれがよいだろう」と尋ねた。その候補は三つあり、「惣官」は先例の平宗盛が好ましくない。「征東大将軍」は先例の木曽義仲が好ましくない。「征夷大将軍」は先例に坂上田村麻呂があり適切だと答えた。そして、三日後、再び宗頼が兼実の意向を伝えに訪ね、「頼朝が望む大将軍の号は、田村麻呂の先例に基づき、征夷に決した」と伝えた。

なぜ、大将軍だったのかという理由の推測はこうだ。各地には「将軍」の末裔たることを自負し、ともすれば自らが「将軍」たらんとする武士たちが大勢いた。そのような状況下で、一個の武士の政権を確立しようとする頼朝が求めたのは「将軍」を凌駕する「大将軍」だったのではないかというのだ。

征夷大将軍は「源氏長者」であることが条件か? (岡野友彦)

氏長者とは何か?

源氏の現職の公卿(位階は三位以上、官職で参議以上)の地位にあるものの内、最も官位の高い人(現任上官)が奨学院別当の地位に就いた場合源氏長者となる。そして、源氏の筆頭公卿が大納言や中納言の場合は、淳和・奨学両院別当を兼ねることになり、その人が大臣となった場合は、淳和院別当は「次の人」である大納言あるいは中納言のとしての源氏筆頭公卿に譲り、奨学院別当と源氏長者は大臣としての源氏筆頭公卿が務める。

淳和院は淳和天皇の後院で、天長十(833)年天皇は淳和院で譲位し、以降同院に住居した。元慶五(881)年に別当(長官)が置かれると、源氏長者別当を掌握していた。奨学院は元慶五(881)年、業原行平が創設した大学別曹(貴族が氏族の子弟のために設置した学問所)である。皇族・源氏・平氏一族の子弟が寄宿し、大学に通った。

中世前期から足利義満まで、源氏長者を務めたのは村上源氏の一族であった。

源氏とは何か

源氏は平安初期、嵯峨天皇の皇子・皇女50人の内32に人に「源」の姓を与え、皇籍から臣籍に降下させたことに始まる。その後、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上と平安前期のほぼ歴代天皇の皇子・皇孫に「源」の姓が与えられた。いわば、源氏は臣籍降下したときの血筋が天皇に近く、「准皇族」的な性格を有していた。一方平氏桓武天皇の皇孫高棟王・皇曽孫高望王に始まり、仁明平氏文徳平氏光孝平氏のいずれも天皇の皇孫に対して賜姓されている。源氏と比べると平氏は若干血筋が遠いことになる。

村上源氏清和源氏

村上源氏の起源は、村上天皇の皇子具平親王の子で、寛仁四(1020)年に源性を賜り臣籍に下った源師房である。幼くして父である具平親王を亡くした源師房は、姉の隆姫の夫である藤原頼通に引き取られ、その父藤原道長の娘尊子(源明子の所生)と結婚し、摂関家の一員となり、公家社会に登用された。そのため准皇族の血筋を持ち、準摂関家として待遇されることで、ほぼ歴代太政大臣・左右大臣の地位に就くことができた。

一方清和源氏の位階・官位は低い。これは元慶七(883)年、清和天皇の皇子である陽成天皇が廃され、清和天皇の叔父にあたる光孝天皇が即位した結果、その後の皇位光孝天皇の子孫に継承され、清和天皇の皇子や皇孫が政界デビューしたときには、彼らにとって遠い親戚である天皇の時代になっていたことが影響していると考えられる。このため中央政界では厚遇されることがないので、彼らを地方に向かわせ、そのことが清和源氏武家へと成長させるきっかけとなった。

このような清和源氏=武家源氏の身分的な地位の低さは、たとえその棟梁が征夷大将軍になっても変わらず、むしろ、征夷大将軍とは中下級貴族こそが担う職あり、大臣級の貴族がつくべき職ではなかった。

足利義満と準摂関家待遇化

応安元(1368年十二歳で征夷大将軍となった足利義満は十年後の永和四(1378)年に権大納言・右近衛大将に任じられ、二年後の康暦二(1380)年には従一位、翌永徳元(1381)年には内大臣に叙任され、清和源氏としては実朝以来の「現任上首」となった。翌永徳二年に左大臣に昇任し、その翌年源氏長者に補された。また、義満が出家した応永二(1395)年以降、現任上首となった久我具通久我通宣が源氏長者になった形跡はなく、次の源氏長者は、応永十五(1408)年(義満没後五年後)に次の将軍の義持がつくまで空位だった。この背景には足利将軍家摂関家に準ずる家格に遇しようという公家社会の思惑があったようだ。

最後に記しておくが、 征夷大将軍が源氏に限定されれるなどという原則は歴史上一度も存在しない。

徳川将軍家に振り回された「新田義貞の子孫たち」 (生駒哲郎)

徳川の源氏は足利の源氏とは異なり、その起源を新田義貞につならる新田源氏と位置づけている。徳川家康の「徳川」は新田氏の本拠地である上野国新田郡の「得川郷」に由来するという。しかし、徳川となる前の「松平」は三河国加茂郡松平郷に由来し、松平は加茂姓であったので、新田源氏で徳川というのは矛盾していると思うのだが、どうも家康の作為的な工作とは言い切れず、家康自身も新田源氏の血を引いていると信じた面があるというから驚きを禁じない。そんなにいい加減なものなのだろうか?

東照大権現縁起が語る徳川家の由緒

天台宗の天海が作成に携わった東照大権現縁起によると

  1. 徳川家は清和天皇の系統の源氏(清和源氏)である。
  2. 清和源氏である源義国の嫡男義重が新田の祖で、次男義康が足利の祖である。
  3. 清和源氏源頼朝が、日本惣追捕使・征夷大将軍となった。
  4. その後、足利氏と新田氏の間に確執が生じ、同じ清和源氏で武勇に勝劣はないが、聖運によって足利氏が世を治めた。
  5. 新田氏は退くにあたって、日枝山王権現に「鬼切の太刀」を奉納し、子孫が征夷大将軍になることを祈願した。
  6. 山王権現の神慮により、義貞の子孫である徳川家康征夷大将軍に就任した。

つまり、「源頼朝→足利氏」という系譜と、「源頼朝→新田氏」という二つの系譜があり、足利氏がほろんだので、今度は新田氏の系譜が始まったということなのだ。このように、徳川家康征夷大将軍就任は、足利将軍家を継承したわけではなく、足利将軍家の否定の上に成り立っている

江戸時代の歴史書日本外史」が語る征夷大将軍像 (生駒哲郎)

戦前までは南朝が正統とされていたというが、なぜかというのは以前から疑問に思っていた。その理由が本書に書かれていた。明治四十四年に教科書「尋常小学校日本歴史」の天皇の記述の仕方を発端となり、後醍醐天皇南朝光明天皇北朝のどちらが正統なのかを国会で議論した「南北朝正閏問題」では、明治天皇の勅裁という形で南朝が正統とされたのだ。その後も日本史研究では「南北朝時代」という表記が使われ続け、研究者の間でも南朝を正統とする立場が多数を占めているという。このような捉え方は、徳川光圀の「大日本史」や頼山陽の「日本外史」でもそのように述べている。