隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか

管賀江留郎氏の冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのかを読んだ。この本の内容を一言でいうなら、「なぜ冤罪は起きるのか」という事なのだが、その部分に直接的に言及しているのは約600ページある本文中の13章の約90ページで、では他の約510ページは何について書かれているかというと、かって静岡県内で起きた複数の冤罪事件についての発端・経緯・結果についての詳細な記述なのだ。著者の意図としてはそれらの冤罪事件を語ることで、なぜ冤罪が起こるのかという事を補強しようとしたのだろうとも読めるのだが、だがそのように単純に考えていいものかという気もする。というのも文庫版あとがきで著者は本書を「『白鯨』や『黒死館殺人事件』の如き文学作品のつもりで執筆した」と書いているのだ。

本書の構成もちょっと複雑だ。いくつかの実際の事件(二俣事件、浜松事件)を扱っていて、それに関しても詳細に経緯を追っているのだが、登場する人物も多彩で、事件から人物に焦点を変えるという事が頻繁に起き、またある人物から別な人物へと焦点が変わり、次々と色々な人物が登場してきて、実に目まぐるしい。冤罪事件が白日にさらされて拷問王と呼ばれる紅林麻雄警部補、紅林警部補の拷問を内部告発したことにより警察を追われる山崎兵八刑事、プロファイリング捜査の先駆者吉川澄一技士、二俣事件の三審に弁護団に加わった清瀬一郎弁護士(自民党代議士)、誤鑑定をした法医学者古畑種基博士などなど。それぞれの人物にはそれぞれの物語が山のようについていて、話はどんどんあらぬ方向に進んでいるのではないかと思えるほど広がっていくのだ。

冤罪の源泉は、利害関係を全く持たないはずの他人が、犯罪被害者に同情したり、犯人だと思われるものを憎むことだと著者は解説する。この考えの大元は驚くことにあのアダム・スミスが著した感情道徳論という本なのだ。人類の進化の過程でこの感情道徳が形成されてきた。更に人類の進化の過程で、仲間を救っておけば、自分が助けが必要になった時に救ってもらえるかもしれないという互恵的利他主義が形成されてきた。これが道徳感情の第一歩だという。人間の場合はさらに複雑な、自分の評判を高めたりすることで、巡り巡って恩恵が返ってくる間接互恵性が発生してきた。このことが、互恵に反する行動をとる者への監視や罰につながっていったというのだ。しかし、互恵に反する行動をとる者が容易に判定できるとは限らず、人間は因果関係の推論からそれを見つけようとするのだが、そこに錯誤が生じてしまう。典型的なものは認知バイアスである。これに打ち克つためにアダム・スミスは公平な観察者というものを提案している。これは自己の利益だけでなく、他社の利益も超越した、全てを俯瞰してみる公平な観察者の視点を内なる自分に持つことによって、「賞賛や非難に値するかどうか」を判断し行動すべきだと説いている。だが、このような視点は普通の人が持つのにはハードルが高すぎるだろうと思う。

本書の中で何度か出てくる「銃後の人の呑気さ」という言葉が本書の内容とは直接関係ないが印象に残った。今となっては本当に戦争中の生活がどうだったのかというのはよくわからないところもあり、物がなくて大変だったとか、空襲が大変だったというようなことを見聞きするが、年表で見る空襲などを見ると学童疎開が始まるのが1944年8月で、東京への空襲は11月からになっている。1944年後半まで、戦地で戦死する人がいても、実際に周りで死ぬ人などいなくて、戦争といってもそれほど実感がなかったのかもしれない。