隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済

高槻泰郎氏の大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済を読んだ。時代小説などを読んでいると、江戸時代に大坂の堂島に米市場があり、そこでは先物市場がすでにあって、これは世界的に見ても類を見ないことだというようなことを目にすることがある。本書は、この堂島にあったコメ市場に関して解説した本だ。


米切手

大坂での米市の起源かなり古く戦国時代にはすでにあったようだ。江戸時代の米の取引にはすでに手形(米切手)が用いられており、大名が国元から廻送した年貢米を蔵屋敷から落札し、その代銀の三分の一を支払うと手形が発行され、これに残りの代金を添えて蔵屋敷に提出すれば、米と引き換えることができた。しかし、落札者はこの米切手を転売していた。承応三(1654)年、大坂町奉行所はこのような米切手を禁止しようとした。このころから米切手があったようだ。米切手を転売することで米価を高値にしたり、また、蔵屋敷でも廻送されていない米に対して米切手を発行していたりして、幕府は大坂町奉行所を通じて、これらを取り締まろうとしたようだ。

しかし、これはうまくいかず、幕府は残代銀を支払って米切手と米を交換する期限を短くした。万治三(1660)年には三十日以内に、寛文三(1664)年には十日以内にした。この政策により、残代銀は期限内に支払われるようになったが、今度は全代銀完納証としての米切手が発行されるようになり、米の蔵出しが先延ばしになる実態には変更がなかった。

堂島米市場の米取引

堂島米市場での取引は年三回行われていた。

 正米商い帳合米商い立物米に選ばれた銘柄
四月限市1/8~4/281/8~4/27筑前米、肥後米、中国米、広島米など
古米限市5/7~10/95/7~10/8加賀米、米子米など
極月限市10/17~12/2410/17~10/23筑前米、肥後米、中国米、広島は米

正米商い

正米商いは実際に米を売り買いする商いである。取引時間は四つ時(午前十時)から九つ時(正午)までの約2時間であった。正米取引における売買単位は米切手一枚(米十石)を最小とし、百石以上の取引を丸商い、それ以下の取引を潰し商いと区別され、両者は仲買への手数料が異なっていた。丸商いは0.16%、潰し商いが0.25%となっていた。正米商いでの決済は現銀・現物(米切手)決済が原則であり、遅くとも四日以内に決済を完了する必要があった。決済不履行になることを「突く」といい、一度でも付いたものはそれ以降取引に参加できなかった。突きが生じた場合の損失は、相手側が被ることとなったが、そのものが更に支払い不能になった場合も、以降の取引は禁じられた。ただし、損失額のうち三割から五割を弁済すれば、残りは容赦されて、再び取引に参加できた(噯 アツカイ と呼んだ)。全額返済した場合は「丸アツカイ」と呼んだ。

帳合米商い

取引時間は五つ時(午前八時)から始まり、正午になって「暫時消」という休憩が入り、午後から再開されて、八つ時(午後二時)に取引が終了した。しかし、実際にはこの終了の後も、非公式の取引は継続したようである。帳合米商いで取引の対象となるのは立物米であり、立物米とは堂島米市場で三期の取引期間ごとに投票によって選ばれた米の銘柄である。この立物米一単位百石を対象に、買い・売りが取引期間に同量となるように取引を行う。つまり、百石買ったならば、取引期間内に百石売らなければならないし、百石買ったならば、取引期間内に百石売らなければならない。そうして、期限日に売り買いの相殺を行い、損益として授受を行う。日々の取引はすべて米仲買より「差し紙」という書面で米方両替屋に報告し、米方両替屋にてこれを確認して、記録した。米方両替屋は「消合日(およそ十日に一度、時代により変化した)」にそれぞれの売りと買いを相殺し、授受されるべき損銀、益銀を算出した。その際、銀一貫目につき銀一分の手数料を取ったとされる(手数料0.01%に相当)。

この帳合い米取引には、原則として、米の現物も、米切手も用いず、差金決済が原則であったが、正米価格と帳合い米価格が乖離しているような場合には、米切手の受け渡しによる決済も例外的に認められた。この例外規定が生まれたのは元文二(1837)年の夏相場で最終日において、正米価格と帳合い米価格が乖離したことによる。本書にもなぜ両者の価格が期限日に一致するように値が動くかについては、記録が残っていないと書かれているが、両者の値が一致するのは全く不思議なことだ。しかし、結局幕末から明治にかけて、両者の価格は乖離していくことになり、それが原因で明治二年に帳合い米商いは終了することになる。

立物米

立物米に選ばれるには、大量の米切手を発行した上に、「内味減少*1」を少しでも小さくしなければならず、そのために米の品質を上げるか、あるいは一俵の米の量を目減りを見越して増やしておく必要がある。立物米に選ばれると、コメ価格の上昇が見込めるので、大名は競争していた。「手本見せ米」という入札に先立って、米仲買に開陳する見本米の選定には特に気を使っており、「一粒選り」を行うようなこともしたようである。

状屋

米を取引する大規模市場は、大津、下関にもあり、これらの地方市場は大坂米価を参照しながら取引をしていた。また、江戸においての米取引も大阪米価の影響を受けていた。江戸時代の後期には、大坂の市況はどの情報を整理し、書状にまとめることを生業とする商人が現れ、これを「状屋」と呼んだ。彼らは、大坂の米市場の正米値段、帳合い米値段、蔵屋敷よりの倉物販売、米の蔵出し量、大阪米市場の気配、他所、他国からの情報を扱っていた。また、大坂の米仲買も地方在住の顧客に対して、独自の情報を整理して提供していた。大阪の市況を整理してまとめた書状は「相場書」、「相場状」と呼ばれていた。

米飛脚

こうした相場書を伝送したのが、米飛脚と呼ばれる飛脚だった。米飛脚は相場書の伝送に特化した飛脚で、伝送頻度が多かった。米飛脚は毎日出立し、追加料金を払う顧客には、一日に複数回出立することもあった。米飛脚の伝送範囲は、北は日本海沿岸の北陸地方、西は九州地方に及んでいたが、関東地方と東北地方は含まれていなかったようだ。

旗振り通信

米飛脚の速さにも満足できない江戸時代の人々は、更に高速の通信手段として旗振り通信を考案した。十八世紀初頭には、視覚情報を利用した通信が行われ、十八世紀中ごろには広く普及したものと推測されているが、断片的な史料しか残っていないので詳細は不明だ。幕府が旗振り通信を禁止していたことが史料が残っていない理由のようだ。安永四(1775)年閏十二月、大坂町奉行所は、大坂市中、摂津国河内国の村々に宛て触れを出し、「幟やその他さまざまな方法によって相場を他へ移すもの」を取り締まるとした。文面からはこれが初回ではないことが確認できるが、いつが初回なのかはわからない。

*1:輸送中に米がこすれ合い、欠けたりして生じた目減りのこと