隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

江戸の女子旅―旅はみじかし歩けよ乙女―

谷釜尋徳氏の江戸の女子旅―旅はみじかし歩けよ乙女―を読んだ。この現代的なタイトルを見て、「江戸時代に若い女性だけの旅はないだろう。どんなことが書かれているのだろう?」と思って、読んで見た。このタイトルはミスリードだ。著者にはそのような意図がないのかもしれないが、私は誤解してしまった。本書で取り上げられている女子旅というのは、江戸時代に旅をした人物が遺した日記22件の中に登場する女性達のことで、必ずしも日記の書き手が女性というわけでないものもある。しかも、やはりというか女性だけで旅をしたケースは本書では取り上げられていない。また女性の年齢も20代、30代もあるが、圧倒的に40代半ば以降のようなので、若い女性の旅というわけではないようだ。

本書の前半には旅の準備・旅の心得などが書かれている。後半は残された日記を紐解いて、実際にどのような旅をしたのか、どのようなところに泊まったのか、食事や遊興にどれぐらいお金を使ったのかなどが書かれている。

手形

女性の旅には往来手形と道中手形が必須で、前者は身分証明書のようなもので、一般に手形というとこちらのことを指しているのではないかと思う。これは名主、庄屋、旦那寺などの身元保証人が発行した。関所手形は旅人の居留地の領主が発行するもので、旅行先や目的とともに関所の通行を願い出る形式の書状である。この手形を元に本人確認が関所で行われるのだが、何分にも紙に書かれている事だけなので、18世紀中ごろからは身体的特徴(傷、ほくろ、髪の毛の特徴等)も記されるようになり、関所では身体の細部に及ぶ厳しい身体検査が行われるようになった。この検査をするのが「人見女」とか「改め婆」と呼ばれていたらしい。このように道中手形を所持していても関所を通るのは女性にとっては難儀なことなので、関所の近隣の宿屋では秘かな通行のあっせんをすることもあり、関所の役人のと間で結託して商売していたようだ。

関所では主に上りか下りの一方の方向だけを取り締まっていたようで(両方向を取り締まる関所もあるらしい)、例えば箱根は江戸から出ていく方向を取っていたが、江戸に入る方は無手形でも問題なく通れた。

宿

19世紀中ごろの幕末の金額で、旅籠は200文ぐらいが相場の宿代だったようで、食事なしの木賃宿はその半額以下だったようだ。宿屋には飯盛り女がいるところもあり、部屋と間仕切りは襖と障子なので、女性としては避けたいところだろう。当時は浪花講という協定組合があったようで、浪花講が発行した「浪花講定宿帳」には「加盟宿に泊まれば飯盛り女を進められる憂いはなく、もし粗末な扱いがあれば、申し出により定宿の指定を取り消す」旨が記載されていた。ただ、その分宿代は若干高かったようだ。

旅の目的

当時の旅の目的は神社仏閣への参詣という事がたいてい上がるが、実はこれは旅立ちの口実を得るための方便で、実際は物見遊山の旅というのが実態のようだ。そのため出発地と目的地の間を周遊するようなルートを選び、往路と復路で二重に楽しめるようにしたようだ。