隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

一冊でわかるドイツ史

関眞興氏の一冊でわかるドイツ史を読んだ。文明交錯 - 隠居日録神聖ローマ帝国の皇帝が出ていて、そういえば神聖ローマ帝国とはどいういきさつでできたのかもうすっかり忘れていることに気付いた。神聖ローマ帝国といえばハプスブルク家で、文明交錯でも登場していた皇帝はハプスブルク家のカール5世だった。それと以前から何となくよくわからなかったのがプロイセンだ。この国もドイツの一部なのだろうが19世紀ごろ突如として登場してきた感がある。それと、ヒットラーによるオーストリア併合にもどのような理屈だったのか興味があり、本書を読んでみた。オーストリア併合に関しては一、二行書かれているだけで、よくわからなかった。

神聖ローマ帝国

8世紀の後半に現在のフランス・ドイツ・北イタリアをカールが統一し(フランク王国)、ローマ教皇のレオ3世は800年のクリスマスに西ローマ皇帝の冠をカールに授けた。そして、カールは大帝と呼ばれた。814年カール大帝が死去し、孫の代になるとフランク王国内で権力争いが起き、843年にフランク王国は西・中部・東に三分割される(中部フランク王国はやがて北イタリアのみに縮小される)。西ローマ皇帝の地位は東フランク王に引き継がれた。

10世紀半ばにザクセン系のオットー1世がこの地域をまとめ、ローマ教皇との関係を強化した。イタリアに赴いたオットー1世は962年教皇からローマ皇帝の称号をえ、神聖ローマ帝国が誕生した。「神聖」とは教皇に認められた皇帝がいることを表している。

本書には「ドイツ王」とか「ドイツ」という呼び方が最初の方から多数出てきているが、では一体いつから「ドイツ」という言葉が使われていたのかどうもはっきりしない。ナポレオン戦争後の19世紀前半に誕生するドイツ連邦まで「ドイツ」という国名はあったのだろうか?

プロイセン

プロイセンの元となったものは2つある。一つはブランデンブルグ辺境伯で、エルベ川の東側を守っていた。最初はザクセン家が辺境伯に任命されていたが、別の家を経て、1415年からはホーテンツォレルン家に継承された。
もう一つはブランデンブルグ辺境伯領よりも東に進出した東方植民の農民だ。彼らを守護したのがドイツ騎士団で、キリスト教の布教も行った。そして、13世紀ごろドイツ騎士領団ができた。ドイツ騎士領団は先住民のプロイセン人と戦い、その地から追い出して、プロイセンの名を引き継いでプロイセン公国が成立した。この時のプロイセン公国ローマ教皇支配下にあった。16世紀の初め、ホーエンツォレルン家のアルブレヒトがドイツ騎士領団団長に就任し、1523年アルブレヒトカソリックからルター派に改宗した。その2年後にドイツ騎士団ローマ教皇の支配を受けないプロイセン公国になった。

ドイツの元になった国家の成立をフランク王国にするのか東フランク王国にするのははっきりしないが、いずれにしても千年以上の歴史があるので、それを一冊の本で全部カバーするのは大変な作業だと思う。それだけ長い時間をたった一冊でカバーするために、この本の記述はかなり細かいところを端折っていて、詳しく知りたいのならば別な本を読むべきだと思った。