小川哲氏の嘘と正典を読んだ。本書は短編集で、「魔術師」、「ひとすじの光」、「時の扉」、「ムジカ・ムンダーナ」、「最後の不良」、「嘘と正典」の6編が収められている。巻末の初出一覧を見ると、最初の4編がSFマガジンで、「最後の不良」がPen、「嘘と正典」が書き下ろしになっている。
一応SFの範疇に入るのだろうが、「ひとすじの光」はある男の出自とその男の父親が遺した馬の系統が実は過去で関係していたということを書いた小説で、馬関係の雑誌に掲載されたものなのかと思ったら、SFマガジンに掲載されていたようで驚いた。「魔術師」、「時の扉」、「嘘と正典」は時間物にSFなのだが、「魔術師」はマジシャンの息子の視点から、父と姉が演じた時間遡行のマジックを解き明かすようなストーリーなのだが、最後の最後に至って、方法は謎ながら実際に時間遡行していたのではないかと感じさせる不思議な物語になっている。
この中で一番面白かったのは、表題作にもなっている「嘘と正典」だろう。物語の出だしはサミュエル・ストークスという電信技士が裁判に証人として出廷するところから始まる。その裁判はフリードリヒ・エンゲルスがマンチェスターのワディントン工場の襲撃に加担していたことを裁くものであったが、その裁判の場でサミュエル・ストークスはエンゲルスのアリバイを証言したことにより、エンゲルスは無罪となる。その最後のところで「アンカー」、「正典」、「計算量」、「正典の守護者」、「中継者」、「歴史戦争」というような言葉がいきなり何の説明もなく飛び出してきてこのエピソードは終わってしまう。次はいきなり冷戦下のソ連のモスクワでの諜報活動になっていく。あれ、これは何の話なのだろうと思っていると、共産主義を抹殺するために手を結ぶアメリカ人のCIA工作員とソビエト人通信エンジニアの話になっていくのだ。アメリカ人は平和のために、ソビエト人は科学の発展のために共産党を葬ろうとする歴史改変SFになる。そして歴史改変のために物語の最初にあるフリードリヒ・エンゲルスの裁判へとつながっていくという円環構造になっている。
フリードリヒ・エンゲルスの裁判は検索しても見つからないので、作者の創作なのだと思うが、小説の中に尤もらしく挿入されると、そんなことがあったのだろうか?とちょっと妙な感じがしてしまう。そのあたりも作者の計算で、だからタイトルに嘘がついているのだろうし、改変された(創作された)物語を挿入したのだろう。