隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

映画は撮ったことがない ディレクターズ・カット版

神山健治監督の映画は撮ったことがない ディレクターズ・カット版を読んだ。本書は以前に出版されていたものに、庵野秀明監督との対談を新たに収録し(その代り押井守監督・中島哲也監督との対談を割愛)し、映画を生む本棚を追加したものだ。

神山監督はなんとなく自分よりずうと若いと思っていたのだが、生年が1966年になっていて、そんなに年が変わらなかったということに、今更ながら気が付いた。

本書の前半の部分は、神山流映画論になっている。企画とは「相乗りできる何か」という定義が面白いと思った。「企画が動き出してしまえば、それをかなえるチャンスはいくらでも僕の手の中に隠されているのだから」とも書かれていて、この文章の「それ」は監督が実現したいもののことだ。このあたりの考え方は押井監督の考え方に近いものがあるのだと思う。しかし、これだと「企画」といのは正に同床異夢なのだと思い知らされる。

それと神山監督の「映画」の定義も興味深かった。単に映画劇場で公開されている作品=映画ではなく、

2時間ほどの時間でゼロから説明して、それが足りているかどうかのメディア

と語っている。そして、更に、

オリジナルの映画というのは、その点でお客さん全員がほぼ同じ状態で作品に接するので、ここで驚いてほしい、ここで気持ちを解放してほしい、という部分がそろいやすいはずだろうと。それが共通の体験を生んで、映画を見たという実感につながるんじゃないかなと思っているんです。

と続けている。

励み場

青山文平氏の励み場を読んだ。「励み場」とは「励めば報われる仕事場」という意味である。

本編は名子の青年が勘定書の普請役となり、そこから勘定支配に這い上がって、更に上を目指そうとしている姿を描いている。名子という言葉は本書を読むまで知らなかったのだが、江戸幕府が開かれたこと、地方の小領主が土着して農民になった時にその家臣も同時に土着して農民になった。この家臣の農民のことを名子というのだが、名子は主家に隷属しているので、時代が下るにつれて、小作よりも下に見られることとなっていった。

物語は武士となり上を目指している笹森信朗と妻の智恵の視点と交互に描かれている。智恵は自分が養子であり、養親の話をたまたま聞いたことにより自分が名子であると知った。そのことにより、家に居場所がないような気になり、一反は縁付いたが、子が生まれないということで、離縁になりまた家に戻ってきた。そんな時に代官所の元締め手代笹森信朗が見初めて、妻に迎えられえた。そして、笹森信朗は江戸に出て、勘定書の普請役となり、ある調査のために成沢群の上本条村に調査に出かけることになった。

この物語は名子の物語であり、名子としていかに生きるべきかを決断する物語だ。そして、妻の智恵が勘違いにより自分を縛っていた感情・考えから解放される物語でもある。