隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

つまをめとらば

青山文平氏のつまをめとらばを読んだ。本作品は第154回直木賞受賞作品だ。

短編集で、表題作の「つまをめとれば」の他に、「ひともうらやむ」、「つゆかせぎ」、「乳付」、「ひと夏」、「逢対」が収められている。

今までの青山作品は、江戸幕府開闢から150年ほどたち、武士が武士としてのよりどころである「武」が揺らいでいる時代の、武士の迷い、その迷いから一歩踏み出すさまを描いたような作品が多かったが、この短編集に収められているのは、どちらかというと男女の機微が中心だ。


「逢対」は前半部は逢対には全然関係ない話から始まって、どういう風に相対に結び付くのだろうと思ってしまった。話の出だしはこうだ。貧乏旗本の見本のような竹内泰朗は近所の煮売り家を便利に利用していた。その煮売り家を切りもしているお里が「近所ならお届けします」と言い、それがきっかけで割りない仲になった。ここから急に逢対の話に切り替わる。逢対とは幕府の有力者の屋敷に顔をだし、覚えてもらい、何かの折に引き立ててもらおうとする、無役がする就職活動のことだ。或る日幼馴染の北島義人が訪ねてきた。義人がは十年も逢対を続けている。そして、「これがおれの武家奉公だ」と言い切る。そんな由人を見ていると泰朗は自分が逃げていると感じざるを得ず、武家を識ために義人に同行しようと考えるのだった。

江戸時代の武家は家禄というものがあり、それは今でいうところのベージックインカムのようなもので、何も働かなくても収入として入ってきた。もっとも役についていないものは小普請組に属することになり、逆にいくばくかの金銭を幕府に返納することになっている。そのように無役を代々続けると、畢竟「武」だけでなく、「奉公」という概念も揺らいでしまう。そんな男が逢対に出かけて行って見たものは何なのか、そしてお里との仲はどうなっていくのかというのが本編の筋だ。

「つまをめとれば」は妻を娶ろうかどうか思案ている五十代の役を退いた山脇貞次郎が、幼馴染の深堀省吾の屋作を借りるところから物語は始まる。貞次郎は新しい家に移れば踏ん切りがつくと思っていたが、そうならず、なんとなく年寄り二人の子供の頃の関係が心地よく感じてしまうのだった。物語は最後までどこに着地するのかわからず進行していくのだが、タイトルの「妻をめとるならば」に続く言葉がこの物語のおちになっていて、貞次郎は最後に決心を省吾に打ち明けるところで終わる。「妻をめとるならば」なので、妻をめとるかどうかは明らかにされない。ただ貞次郎の決心だけが明かされるだけだ。