隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

クララとお日さま

カズオ・イシグロ氏のクララとお日さま(原題 KLARA AND THE SUN)を読んだ。

知能を持った少女型のアンドロイドは太陽を信仰していた。アンドロイドのエネルギー源は太陽光なので、彼らは太陽を信頼するような志向をしていたが、クララと呼ばれたアンドロイドは太陽の恵みで人と犬が蘇る奇跡を目の当たりにして(彼女にはそのように見えたのだ)、太陽への信頼は信仰へと昇華した。クララはショップで誰かのAFになることを待っていた。そして、ジョジーという14歳の少女と巡り合い、彼女のAFとして旅立っていく。

以下内容に触れる。

カズオ・イシグロ氏の他の小説と同じように、この小説でもほとんど説明的な文章はない。英語の原書ではどのように書かれているかわからないが、日本語の本ではいきなり「AF」という表現でクララ達を表すだけで、それがArtificial Friendであるとは書かれていない。また、物語の舞台がアメリカのどこかだという事は想像がつくのだが、その場所が具体的にも・架空の都市の名前としても一切出てこない。ジョジーは何らかの病気を患っているようなのだが、それが何かもなかなか明らかにならない。やがて病気は遺伝子編集による副作用的なものらしいことが示唆されるだけだ。遺伝子編集の目的もはっきりと書かれていないく、「向上処置」という言葉で示唆されるだけで、知能の向上を目的に行われているようだ。このあたりは、「わたしを離さないで」と同じように、目の前に技術があるなら人間はそれを避けてはいられないという事とつながっているのだろう。遺伝子を編集して知能が向上するのなら人はその誘惑から自由ではいられない。しかし、そこには遺伝子編集をしていない子供もいるわけで、ジョジーの隣人の幼なじみのリックは遺伝子編集をしていないために差別され、未来が鎖されている。

物語はクララのモノローグで進み、ジョジーの家に引き取られ(実際どのようにクララが連れていかれたかは疑問が残る。彼女は外の世界をほとんど知らないのだから)、周りからいろいろ学びながら、なんとかジョジーに元気になってもらえるように彼女なりに懸命に努力するさまが描かれる。クララは医者ではないし、医学的知識もない。だから、ジョジーを元気にするのは、自分たちを助けてくれる太陽の力なのだと思い、クララはお日さまにお願いしたのだった。この物語の最後ではクララがどうなったかが語られるが、その場面は物悲しい。ただクララには楽しかった記憶が残っていることが救いだ。

この物語のクララを表すのに大多数はAIという表現を使っているが、常々私は、器なのか中身なのか、あるいはすべてなのかという事を考えていて、AIという表現に違和感を感じている。器でも中身でもなく全てであるべきで、実態が何だかわからない(あるいはわからないからむしろこの場合はふさわしいのかもしれないが)AIという言葉で表すのも奇妙に感じている。クララの持つ知覚能力(本書の中では観察力と書かれているが)や判断・推論は他の同世代型のAFと比べても優れている設定になっていて、単なる設定なのに、何がその違いなのだろうと考えてしまう。物語はクララというある意味不完全な知性の持ち主を語り手とすることで、今までの信頼のおけない語り手とは異なる方法で、クララの知りえない外側の世界をちらりちらりと見せるという手法が物語を面白くしているし、クララが決して人間特にジョジーを裏切らない存在であり、ジョジーの最善なことだけを考えて行動するところもこの物語の印象を決定づけている重要なポイントだろう。

この物語の終わりを読むと、AFは結局人間世界には受け入れられなかったのではないかと思ってしまう。これだけ高度なものがメンテナンスもされずに使い続けられるとは思えず、クララがいた場所が屋外の廃棄物集積所のようなところであるという印象から、AFを製造していた会社は既に存在しないのではと想像してしまう。だから、行く場所を失ったAFは廃棄されたのではないのだろうか。