隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

本の背骨が最後に残る

斜線堂有紀氏の本の背骨が最後に残るを読んだ。本書は異形コレクションに掲載された短編を集めた短編集だ。私は異形コレクションを読んだことがないのだが、ホラーとか幻想小説のアンソロジーだと理解している。なので、本書もそういう作風の短編が収録されている。収録作品は、「本の背骨が最後に残る」、「死して屍知る者なし」、「ドッペルイェーガー」、「痛妃婚姻譚」、「『金魚姫の物語』」、「デウス・エクス・セラピー」、「本は背骨が最初に形成る」の7編。

最初の「本の背骨が最後に残る」と最後の「本は背骨が最初に形成る」同じ世界と登場人物の一部が共通している作品だ。その世界では紙の本が禁止されていて、代わりに一部の人間が本としての役割を担っていて、物語を語って聞かせている。物語は一冊しかないはずだが、二冊以上存在することもあり、そうなると版重ねという討論で正しい本を決めることになる。審判者である校正使がどちらが正当な本かを判断する。敗れた方は文字通り焼かれてしまうのだ。この短編の中で際立って特異な世界だし、本という名の人が生きながら焼かれるというのも、恐ろしい。

これらの小説を読みながら、私にとって何が恐ろしのかということを考えていた。まず自分に暴力が襲い掛かってきて、苦痛に苛まれることだろう。苦痛を味わうくらいなら、いっそのこと殺してくれと言いたくなる。「本の背骨~」とか、蜘蛛の糸という特殊なデバイスで痛みを送り込まれる「痛妃婚姻譚」、仮想空間にいる自分の複製に拷問を加える「ドッペルイェーガー」がそのような暴力・苦痛の小説だと思う。それと、理解できない不条理、言葉が通じない状況も別な意味で恐ろしい。「デウス・エクス・セラピー」がこの種の作品だと思う。明確な理由もないのに精神病院に収容され、治療と称してとんでもない施術が行われている。この作品の施術もある種拷問に近いので前者の苦痛の範疇にも含まれる作品だ。

こうして考えてみると「死して屍知る者なし」とか「『金魚姫の物語』」は単なる幻想小説に思えてくる。