隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

夏の終わりに君が死ねば完璧だったから

斜線堂有紀氏の夏の終わりに君が死ねば完璧だったからを読んだ。

いわゆる結核文学の一形態だと思うのだが、設定はちょっとひねっている。主人公は中学3年生の江都日向えとひなたは劣悪な家庭環境にいた。母親は家の近くにあるサナトリウムの反対運動をしていて、家庭のことは何もしない。義理の父親は最初は町おこしの事業を起こそうとしていたが、いつの頃からか定職に就かず、近所の農家を手伝うぐらいの事しかしていなく、家庭の経済状況はどん底だ。だから、将来に希望を抱けずにいた。そんな彼の前に現れたのはサナトリウムに入院している致死の病の女子大生。だが、その致死の病とは体が金になるいわゆる金塊病(正式には多発性金化筋繊維異常形成症)にかかっていたのだ。金塊病にかかっている都村弥子は「自分が死んだら国から3億円が支払われることになっている。自分には身寄りがいないから、相続相手として君を指名したい」と江都日向に言った。ただし、「チェッカーで私に勝ったら」と。

結核文学なのだから、江都日向と都村弥子がお互いを愛し合うようになるのは必然なのだが、この小説は結核文学にしては涙を誘うストーリーにはなっていない。それは、片や死ぬことにより3億円の価値を生み出す存在で、片や何も持たない単なる少年であり、金銭的な価値ではない何かがあることを相手にも、周りにも示さなければならない状況に追い込まれてしまっているのだ。そのことにより、この物語が単なる結核文学ではない何かにしているのだと思う。要するに愛し合う二人のうちの一人が不治の病で死に、永遠の別れを経験することでが主眼ではなく、死を境に容易には贖えないような価値を生み出す相手への愛が金銭的なものではないことをどのように示すか、どのような行動によりそれが達成できるかを描くことが主眼になっているのだ。

それと、この小説に出てくるチェッカーにちょっと興味を覚えた。大昔にPCのゲームでチェッカーをしたことがあるのだが、その当時のPCのソフトでも結構強かったような記憶がある。本書によるとチェッカーは既に研究されつくされていて、完全解があるという。プレヤーが間違いを犯さなければ、必ず勝てるそうだ。だとすると、最初からチェッカーの勝負は見えていたのではないかという気もするし、本当は都村弥子がしたかったのは何なのだろうという疑問もわいてくる。